ミズノオト・プレイズ・ノオト・トオン
「ノオト/トオン」〜洋楽事始メと心地よさとJポップと
作・演出 平松れい子
2010年1月 東京・旧鉄工場/テアトロドソーニョにて

Jポップと音楽史を混交して、
身体感覚;ノート・トーンの基準を探っていくストーリー。
トランスフォーム(変容)していく感覚、
ドレミの12音階に光をあてたドラマ+音楽。

作・演出: 平松れい子

音楽: オオルタイチ

出演:
オオルタイチ
佐藤美佐子
熊谷知彦
山本紗由
野口俊丞

スタッフ:
美術 青木祐輔
音響 杉澤守男
照明 南香織
情宣・受付 柿崎桃子
体操振付 田村裕子
体操作曲 早坂佳子
記録写真 KEI OKANO
助成: 芸術文化振興基金
協力: OKIMI RECORDS, 試聴室, にしすがも創造舎
アーカイブ 船田巧

【ストーリー】

『シカゴハウスとドビュッシーを足して2で割ったようなJポップ、で、オリコンヒットチャート100位以内の曲をつくるよ』と豪語する統合不全気味のシンガーソングライター

『あなたは今世紀のジョン・ケージになるわ』と応援する彼女の父親はビートルズを生演奏して著作権協会に訴えられ……

【舞台】

舞台には黒い、胸の高さほどの台が並び、iPhone、三味線、バイオリン、サンプラー、ミキサー、CDJといった楽器・機器が置かれている。ときに出演者がそれらを手にし、オオルタイチが手にかけた楽曲の数々を、めくるめくシーン展開のなかで演奏する。


【評】

「ノオト/トオン」〜デジタル社会へのノスタルジックな抵抗

渡辺正幸・日本経済新聞

 IT(情報技術)に絡めとられた現代社会にあって、人間性の回復を主張した作品。もちろん、役者にシュプレヒコールを繰り返させるようなテーマ主義ではない。人間の多様性、ひいては神性を、音楽を奏でる若者の日常を通じて描き出し、観客に心地よさを感じさせる。
 
 舞台には黒い、腰の高さほどの台が並ぶ。台の上には三味線、バイオリン、CDJといった楽器が置いてありピンスポットで照らされている。台はビルの柱を切りとったようにも見える。機能美に寄り添いながらも反発していく、現代人の二面的な性格をイメージさせている。
 
 ものがたりの前半で「シアトルで篠笛を吹く」というシーンが語られる。かすれていて、それでいて凛(りん)とした音が遠い異国で響きわたる。シアトルというと、ボーイング本社やスターバックス本社があるが、この作品ではITの巨人、マイクロソフト社への抵抗ともとれる。ITによって人間の感覚ではとらえきれない領域の音は、0と1で符号化できる。デジタル情報のひとつともいえる'ドレミ音階'のすき間も、周波数をどこまで細かく刻むかの問題である。また中盤では、洋楽が学校教育に取り入れられた明治時代のエピソードが語られる。もしもデジタル符号を使わなければ師匠から弟子へ、直接に音を伝えるアナログ情報の伝達制度が必要だ。しかしこうした制度はいったん失われると再現できない。楽譜さえなかった古代の音の響きを記憶しているのは、もはや神だけだろう。

 平松れい子の舞台で今回も感じるのは、眠りの中で夢が漂うような不安だ。夢の中で立ち上がってくる役者は、舞台の幕が下りるとともに墓に戻る運命にある。音楽好きな仲間との演奏シーンは華やかで楽しげだが、終わると日常の不安に戻る。楽器の音は本来は秩序がないが、曲という形式でまとめていくことで神が降りる舞台が出来る。それではITは神を降誕させられるのだろうか。ここでITの力を強く否定できれば、人間賛歌としてめでたく終結する。宗教家であれば何のてらいもないだろう。しかしこの舞台ではそれをあえて否定することをしない。

 人が言葉で物を考えるのならば、コンピューター言語もある程度は創造性を発揮できるはずだ。神性を帯びないとは断言できない。メディアとしての波及力、破壊力では、ITはすでに生身の役者が立つ演劇をしのいでいる。人は劇場に足を運ぶ代わりにIT空間に次々とアバターを送り込んでいる。アバターが自ら成長しながら永久に生き続けることなどないと、われわれは断言できるのだろうか。舞台「ノオト/トオン」は、さまざまな問いを観客に投げつけた。


【ポスト・パフォーマンストーク】

モーリー・ロバートソン氏
(ラジオDJ、ジャーナリスト、ミュージシャン)


佐々木敦氏(音楽批評家)







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