天野太郎 横浜美術館主席学芸員

 平松さんの黄金町試聴室でのリーディング公演(9月20日「枝わかれの庭」)を聞いた時、芝居の専門家でもないのに、芝居仕立てにしたらおもしろそうだと少し興奮したことを憶えている。というのも、リーディング公演後しばらく平松さんの罠にまんまとはまって、嘘と本当の区別がつかず、「青森生まれで、両親を幼少のころに亡くし、親戚に預けられた」という劇中のくだりに本気で感情移入してしまったからだ。無論そのことだけではなく、ここでは虚実が巧みに入り交じり、そのこと自体がこのリーディングの大きな要素として十全に機能していたことが大きな要因であったことは言うまでもない。人は小説でも、映画でも、小賢しい嘘ではなく、大きな嘘に包み込まれて嘘なのか本当なのかが気にならないくらいに巻き込まれることに興奮(感動と言っても良いのかもしれない)するものだ。後藤明生ではないが、そもそも人間は嘘のような日常を日々送っているのだから。

 さて、最初の感動を引きずり、アルコールの勢いもかりて、初対面の平松さんに芝居として観てみたい、と一方的にラブ・コールをしてから半年以上経って、瓢箪から駒、でも実際は、平松さんは最初からこれを芝居にしようと企てていたのだが、とにもかくにも芝居として観ることが出来たのだ。最初のリーディング公演で、目一杯興奮したのがいけなかったのか、芝居鑑賞においては、その目一杯の興奮に何か新しい興奮が付加される余地が、そもそも私の中になかったこともあって、何であの興奮が蘇らないのだろうか、と不審に思いながら観劇は終了してしまった。当日は、この芝居について誰かに何かを言いたくて、一緒に観劇した知り合いとビールを引っかけたのだが、その時、観劇中にすでに思いを巡らしていた葬式についてめらめらと考えることがあって、しかも、リーディング公演とこの度の芝居を考えるヒントになるぞ、と芝居鑑賞とは別のところで実は興奮していた。

 50も半ばのおっさんは、よく興奮する。何だかよくわからない話だが、葬式を思い出したのは、実は亡くなった知り合いのお別れ会に出なくてはならなくなったときに、会の幹事に「だから密葬なんかしなかったら良かったのに」、と口走ったことがあって、それは、数年前に母親が亡くなった時に、「本当か!?」と不審に思いつつも、父親がしきりに「生前からおかあさんは、密葬にしてくれと言ってたんだ」という言葉に引っ張られて、身内だけの葬式(それも多分密葬と言うのだろうと思う)を済ませたことがあって、実はそれが、あとで思わぬ経験を遺族に強いることになったことを思い出したからだ。十分に予測のつく話だが、母親の葬式後、知らされなかった親戚や知人から父親のところに電話や手紙が寄せられ、その対応にしばらく忙殺されることになったのだ。「何で知らせなかったのか!」と。葬式という儀式が、何か形骸化した形式的な儀式というよりも、前日の通夜も含め極めて劇場的であって、時間的経過の中で、死という事態を、遺族も含めた関係者に十全に受け入れさせる見事な機能を持っていることは、最近では「おくりびと」や、近親者の葬式を仕切った経験で「お葬式」を映画化した伊丹十三を持ち出すまでもない事実だろう。文化人をきどって密葬にした御蔭で、後でエライ目に遭った話は、少なくない。静かに死を受け入れさせてもらった儀式を簡略化してしまって、あとでその死を巡る大小取り混ぜた様々な「物語」が繰り返し遺族にぶつけられたのではたまったものではない。

 さて、ちょうどこのことと逆の事態を今回経験したことになるのではないか?つまり、私は平松さんのリーディング公演で、密葬にも似た経験をさせてもらった。20数名の観客、虚実の巧みで濃密なストーリー展開で、すっかり私はそのエッセンスを一気飲みしてしまったのだ。ところがこの度の芝居は、それが念頭にあることもあって、葬式のやり直しというか、250人収容の小屋、100人はこえていた観客、まさに舞台は揃い、リーディング公演では一人で演じた何人かのキャラクターは、それぞれ俳優が配されている。基本的なプロットは踏襲されているものの、濃密な内容は、複数の語り手の手をかりて分散され、起承転結よろしく「ストーリー」は展開を見せる。

 芝居を葬式に喩える等、恐れを知らない所業ではあるが、私の芝居の感想はどうしてもこの珍妙な話抜きには語れない。今回の平松作品の要(芝居とはそもそもそんなものなのだろうが)は、何と言っても虚実入り交じり、しらずしらずにその話に引き込まれることころにある。とは言え、散りばめられた科白、あるいは設定は、何かしら同時代の状況の隠喩、または寓意でなければならないような気がする。それも、あまりに現実的な状況を想起させるのではなく、逆に同時代性を通じて何時の時代も変わらぬ人間の本質―アホさかげんとか―がそこはかとなく浮上するような。

 私のようにリーディング公演を経て、今回の鑑賞に至った経緯を持たない人々の感想はきっと違ったものになっているのだろうが、やはり、シンポジウムの再現も含め、「芝居」じみてしまった嫌いはあるのではないか。舞台に並べられたモニターという装置も、この装置のシニフィエが十分に伝わらなかった。というより謎だった。むしろ必要がなかったのかもしれない。言語は論理を表現するには依然として不備であり、不完全なものであるとしたヴィトゲンシュタインを逆手にとって、科白が、受け手の経験的な予測を見事に裏切り、あらぬ所に導いてくれるそのことだけでも、気持ちよく騙された気になれるのではないか。そんな気がした。

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