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2009年4月17日〜19日 横浜美術館 ミズノオト・シアターカンパニーPLUS プロデュース | |
すべてではないあらゆる未来へ、 わたしの枝わかれの庭をゆだねよう。 時間に損なわれない中心を獲得するために。 作・演出:平松れい子 / 映像・美術:青木祐輔 / 照明:佐々木真喜子(ファクター) / 音響:杉沢守男(ビズサウンズ) / 記録写真:岡野圭 / 記録映像:萩原磨 / アーカイブ:船田巧 / プロデュース:三宅文子 / 宣伝美術協力:山下工美(なんばパークス/南海都市創造収蔵)/ 写真提供:アートフロントギャラリー / 主催:ミズノオト・シアターカンパニーPLUS / 共催:エイブル・アート・ジャパン、横浜美術館 / 協賛:明治安田生命保険相互会社 / 協力:にしすがも創造舎/ 協賛:株式会社ナナオ(FORIS TV)、株式会社ビジョンテクノネット(超指向性音響システム)、旭硝子株式会社(理化学実験用ガラス機器)
【ストーリー】 |
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【演出ノートから】 先日、500ギガの記憶容量ができるハードディスクを9000円で買いました。少し前までは記録の単位の1ギガなんて途方もない容量だと思っていましたが、そのうちテラという単位の上をいく1ペタや1エクサのUSBメモリが1980円で買えるようになったら、なんだか自分がもっとだらしなくなりそうです。 たとえば半導体メモリの技術進化と、若年性認知症との関連を考えるのは行き過ぎでしょうか。 ちなみに単位が小さくなっていく方は、1ミクロ、1ナノ、さらに続くピコ・フェムト・アトの技術も開発の先にあります。この単位を日本語でいうと1分、1厘、1毛・・・そして果ては1涅槃寂静という単位にいきつきます。 テクノロジーの進化がニルヴァーナとなり得るのであれば、心の平和の境地も夢ではないのでしょうか? さて、この作品は共生、多様性、社会的包括が声高に叫ばれるこの時代に、障害の概念そのものを再提示するような作品づくりを目指し、俳優だけでなくADHD、発達障害、アスペルガー症といった方との対話や共同作業が稽古の基礎となっています。 情動によるコミュニケーション、言葉によるコミュニケーション、それが分化しつつある現代を俯瞰する装置として、超指向性スピーカーを使用しつつ、言葉がネット上で無数に転送、引用され、そのオリジナルがなんだったのか、どこにあったのか、はたしてそれは事実そこにあったのか、そんな曖昧な現代を予感していたかのようなボルヘス的迷宮世界をお届けできればと思います。 【評】 渡辺正幸 日本経済新聞記者 天野太郎 横浜美術館主席学芸員 【その他のレビュー】 ●境界がない。始まりと終わり、客と役者、創る者と創られる物、嘘と事実、過去と現実と未来との境界、自己と他者との境界がない作品。すべてが作られているが、それは嘘ではなく、しかし確固としたものはないけれどもそこからリアルな何かが感じられる、そんな底なしのループの中に観客は取り込まれ、三半規管をかき回され、分析不可能な感覚を味わされる。隣の席に座る観客も全員出演者なのではないか、では自分はいったい誰なのかという不安にさせられ、緞帳が閉まっても本当にこの芝居は終演したのか、そもそもそれは芝居であったのかがわからず、周囲に誰もいなくなったので席を立つ。そしてその感覚は今でも続いている。 ●いきなり始まり、いきなり終わる。登場人物が作り手、買い手を行ったり来たりし、人の生きる姿をそのまま表現している。 ●無理やり力づくで掴もうとした何かが私の中にもともと存在している断片的な記憶と結びついて半透明な理解へと繋がった。もどかしさがあとあとの余韻へとつながり、いまだに広がっている。 ●クリアカットでストイックな世界観。精神世界と脳の世界の真実を探る試みに挑んでいる。 ●震えているようで震えていない感触が気持ちよく気持ち悪く。五感の感覚認識とは何なのかと、問いかけてくる。 ●shelfディレクター矢野靖人ブログ[link] |
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