「逸民」+「彰さんと直子」短編オムニバス2本立て上演
【作】小川国夫
【演出】「逸民」を仲田恭子 、「彰さんと直子」を平松れい子
【静岡公演】静岡県・飽波神社拝殿/2005年11月26日(土)
【東京公演】東京・シアターイワト/2005年12月6日(火)
●キャスト
冨田昌則 /
桑原滝弥 /
磯崎衣梨
25絃箏演奏・中川かりん
●スタッフ
美術/照明・青木祐輔
脚本・佐々木リクウ
衣装・高田優美
文献提供・木下千夏
協力・前田優子/土肥ぐにゃり/清水建志/与那覇政之/南出良治/須賀力
作品・彰さんと直子
あらすじ
同じ工場で働く、彰さんを見つめる主人公とその妹。
戦後、経済が復興していこうとするなかで生きる3人の心模様を25絃箏と共につづっていく。内向の世代(政治的イデオロギーから距離をおき、主に自らの在り方を模索した作家世代)の代表的作家・小川国夫の異色作。
演出ノート
私にとって昭和初期という時代を知ることは、親を知ることである。昭和ひとけた生まれの両親と昭和40年代生まれの娘との間には大いなる感覚のギャップがあり、その埋まらぬ溝を感じることで親を知り、また歴史を実質として感じることができる。本作品の舞台化は、まずそんなことを入り口として始まった。
「彰さんと直子」の原作は普遍的な詩のような小説で、読むほどに発見がある。舞台化にあたり、その空気感をいかに生身の役者3名によって醸し出せるかにしのぎを削ったつもりである。
藤枝公演レポート……佐々木リクウ(脚本)
先日、静岡県は藤枝市、飽波神社にて公演を行った。大変歴史のある神社である。その歴史ある神社であろうことか、拝殿の中で芝居をやってしまったのである。境内にテントであるとか、神社の本殿をバックに野外劇なんてのはまま聞くが、中でやってしまうのはいろんな意味で勇気のいる事である。能・狂言じゃあるまいし。地元の人間を始め、制作サイドも多少の困惑はあったはずだ。もちろん、いわゆる大きな行事を、そして人々を寛大に受け入れる場所でもある。日本は基本スタンスとして宗教的にはなんでもありの人種であるが、しかし日本人はこの『神社』にどこか畏れているところがやっぱりある。朱色の鳥居などを見つけてはバチがあたらないかと頭の隅でどこかいつも考えてるものだ。舞台仕込み、飽波神社の有り難いあんなものやこんなものを本殿の外に放り出して、神様が祀ってあるところに人が容易に出入りして。そういう行為への後ろ暗さと本番の差し迫った緊張感で、皆目を回していた。挙げ句。人工芝を敷いてそこで芝居・・・なんてバチあたりな。
テキストは小川国夫の短編小説である。小川国夫とは自身を「筋金入りの枝っ子」と称する藤枝出身の作家である。そして敬虔なクリスチャンでもある(神社にクリスチャン、滅茶苦茶である。しかし神社は寛大だからいいのだ)。小川作品を取り上げる経緯は実に単純なもので、仲田恭子は3月に藤枝市民の協力の下、市政の中心・市役所に隣接する文化会館で公演を行っている。その公演を踏まえて、今度はもっと地域そのものに根付いている文化的な場所で、藤枝市民が楽しめるような作品=藤枝出身、在住の小川国夫をテキストにする、という運びなのである。藤枝ゆかりの作家を藤枝ゆかりの神社で、これまた藤枝ゆかりの演出家(仲田恭子)を使って芝居をやっちまようという訳だ。そしてなおかつ、演出家・平松れい子の演出作品も観られるというなんとも密度のある企画である。
平松れい子は仲田恭子とは対照的な作品を展開する。今回の「彰さんと直子」は実に彼女の積み重ねによる、繊細で藍色がかった得たいの知れない想いが出ている。都会育ちの彼女が完全に藤枝という街を食べてしまったようだ。
では実際藤枝の人たちにはどうだったかというと、大変な数の人が駆けつけ、実に盛況だった。原作者の小川国夫は「フランス語に翻訳して、パリでやっても通用する」と満足気に、また安心して飽波神社をあとにした。
たった一日という怒濤の公演スケジュール、舞台バラシの終わったときにふと気づいたことがあった。神社の佇まいが、公演前と公演後とで少し違ったような気がしたのだ。なんというか、甦ったというか。なんとも失礼な話ではあるが、あの神社は甦った気がする。飽波神社の長い歴史の中で、崇められ言い伝えられてきたある『形式』を、演劇というある種カルトな分野でぶっ壊したことにより、輝きを増したような気がしたのだ。公演の成功というのは動員の数でもなければ、芸術性の話でもない、実は「空間が変化していく」という事にその本質があって、藤枝の公演ではそのことを財産としてまんまと獲得したのである。原作者も喜び、何より藤枝の人たちが喜んでいた。きっと飽波神社の神様も喜んでいるに違いない。これでバチがあたるのはなんとか回避できそうだ。
(写真は東京公演より)
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